サイバーセキュリティ大手のトレンドマイクロが、業績予想の下方修正を受けて大きく売られました。
8月13日に発表された決算では、売上高の見通しは据え置かれた一方、営業利益予想が従来計画から21.3%引き下げられました。
これを受けて株価はストップ安となり、決算発表前に一時6,982円をつけていた株価は、その後一時5,302円まで下落。
短期間で約3割下がる場面となりました。
急落だけを見れば、業績悪化を警戒して手を出しにくい局面です。
しかし、同社が事業を展開するサイバーセキュリティ市場は、AIの普及によって今後も高い成長が見込まれています。
今回の下方修正は、成長の鈍化を意味するのでしょうか。
それとも、将来の収益拡大に向けた先行投資による一時的な利益圧迫なのでしょうか。
トレンドマイクロへの投資を考えるうえでは、「伸びる市場にいる」という事実だけでなく、その成長を利益に変えられるかを見極める必要があります。
なぜトレンドマイクロの株価は急落したのか
株価急落の直接的な要因は、営業利益予想の下方修正です。
ポイントは、売上高予想が変更されていないことです。
需要が急減したのではなく、想定を上回る費用の増加によって利益が押し下げられました。
会社側が挙げた主な要因は、競争環境への対応や製品・サービスの機能拡充に伴う投資です。
なかでも、AIトークンコストを含むクラウド関連費用が当初想定を大きく上回りました。
さらに、その他の費用も全般的に見直した結果、年間の費用が従来予想より増える見込みとなっています。
AIを使ったサイバー攻撃が増えれば、防御側もAIを活用しなければなりません。
複数のAIモデルを利用すればトークン費用が発生し、顧客企業のシステムと接続するためのAPI費用も必要です。
クラウド上でサービスを展開する以上、利用量の増加もそのままコスト増につながります。
つまり今回の下方修正は、単なる経費管理の失敗と断定できるものではありません。
サイバー攻撃の高度化に対応するための費用が、想定以上の速さで膨らんだという側面があります。
AIはセキュリティ企業の敵か、追い風か
生成AIが普及し始めた当初、セキュリティソフトの機能の一部はAIに代替されるのではないかという見方がありました。
SaaS企業全般に対する警戒と同じように、セキュリティ企業の付加価値も低下するのではないかと懸念されたのです。
しかし足元では、反対の見方も強まっています。
AIによって攻撃側の能力も飛躍的に高まり、防御需要そのものが増えているためです。
従来のサイバー攻撃は、特定の端末や脆弱性に対処すれば防げるケースが少なくありませんでした。
トレンドマイクロの「ウイルスバスター」に代表されるように、パソコンへの侵入や不正プログラムを検知する機能が中心だった時代です。
ところが現在は、攻撃経路が大きく広がっています。
端末、サーバー、クラウド、メール、ネットワーク、さらには人的要因まで、企業全体のあらゆる場所が侵入口になり得ます。
AIを活用すれば、一つの方法が通用しなかったときにコードや手口をすばやく変え、別の経路から攻撃することも容易になります。
公表されている事例では、ランサムウェアが攻撃手法をわずか31秒で切り替えたとされています。
攻撃が失敗するたびに人間が一から考えるのではなく、AIによって次の手段を自動的に試せるようになっているのです。
このような攻撃には、一つひとつの侵入口を個別に守るだけでは十分ではありません。
企業全体で何が起きているかを監視し、複数の攻撃が同一の攻撃者によるものかを分析し、将来起こり得る情報漏洩やサーバーダウンを予測したうえで、対応の優先順位を決める必要があります。
その司令塔となるのが「SOC(Security Operation Center)」です。
SOCは、組織内のさまざまな環境を監視し、脅威の検知、分析、対応を一元的に行う機能や組織を指します。
AIによって従来型のセキュリティ機能が陳腐化する可能性はあります。
しかし同時に、攻撃の高速化と複雑化によって、企業全体を守る高度なセキュリティの重要性はむしろ増しています。
「AIにはAIで対抗する」という構図が、市場を拡大させているのです。
サイバーセキュリティ市場は中長期で拡大する
クラウドサービスの普及やリモートワークの定着により、企業が守るべき端末やシステム、接続地点は増え続けています。
攻撃を受けた企業は、情報漏洩だけでなく、事業停止、顧客離れ、損害賠償、信用失墜といった深刻な損失を負いかねません。
そのため、セキュリティ投資は削減しにくい支出になっています。
市場予測では、世界のサイバーセキュリティ市場は2034年まで年平均14%弱で成長するとされています。
非常に魅力的な成長率です。
ただし、ここで注意したいのは、市場の成長と個別企業の利益成長は同じではないという点です。
攻撃側が高度化すれば、防御側はサービスを更新し続けなければなりません。
クラウドやAIの利用費だけでなく、優秀な技術者の確保、製品開発、他社サービスとの連携、場合によってはM&Aも必要になります。
市場が広がるほど、対応範囲と競争費用も膨らみやすいのです。
「ウイルスバスターの会社」から企業向けセキュリティ企業へ
トレンドマイクロと聞くと、個人向けウイルス対策ソフトの印象が強いかもしれません。
Windows DefenderなどOS標準のセキュリティ機能が進化したため、従来型のウイルス対策ソフトは成熟市場に見えます。
しかし現在のトレンドマイクロは、個人向け製品だけに依存する会社ではありません。
売上高の約8割を企業向けが占め、個人向けは1.5割から2割弱程度とされています。
企業向けでは、端末だけでなく、クラウド、メール、ネットワークなど複数の領域をまとめて監視するプラットフォームが重要になります。
企業内では部署や事業ごとに異なるセキュリティ製品を導入している場合もあるため、トレンドマイクロの製品だけでなく、他社製品とも連携できるオープンな仕組みが求められます。
一方で、他社製品との連携だけでは自社の収益は増えません。
自社サービスの機能も広げ、顧客企業が必要とする選択肢を増やす必要があります。
この「オープンに連携しながら、自社の提供領域も拡大する」という難しい両立が、今後の競争力を左右します。
サブスク化で利益を伸ばしてきた
トレンドマイクロの業績は、中長期では売上高・営業利益ともに拡大してきました。
その背景の一つが、売り切り型からサブスクリプション型への転換です。
本格的な切り替えは2022年12月期ごろから進みました。
売り切り型では、製品を販売した時点で取引がいったん終了します。
これに対してサブスク型では、契約が続く限り継続収益が積み上がります。
顧客一社が契約を長く続けるほどLTV(顧客生涯価値)が高まり、同じ顧客に毎回一から販売する必要がないため、営業・マーケティング費用も効率化しやすくなります。
さらに、追加機能を提供して契約単価を高めたり、更新時に価格を改定したりする余地もあります。
DXやクラウド化によってセキュリティ需要が増えた時期と重なったことも、売上高を落とさずに転換を進められた一因と考えられます。
海外売上比率が高いため、為替の影響には注意が必要です。
円高になると海外売上や利益を円換算した金額が目減りします。
過去の利益変動を見る際には、事業の実力だけでなく為替要因も分けて考える必要があります。
利益を圧迫した二つのコスト
今回の利益下方修正を考えるうえで、とくに注目すべき費用は二つあります。
- クラウド関連費用
クラウド関連費用は前年同期比でおよそ2倍に増えました。新しいセキュリティサービスを展開するための先行投資に加え、クラウドの利用量、AIトークン、API接続などの費用が増えています。海外事業にかかわる費用には、円安も逆風になります。
これらが成長投資であるなら、短期的な利益減少だけを理由に悲観する必要はありません。ただし、投資した機能が顧客に選ばれ、売上や継続収益の増加として回収できることが条件です。 - 人件費と特別ボーナス
もう一つ大きく増えたのが、人件費です。世界全体の従業員数が大幅に増えたわけではないにもかかわらず、費用が膨らんだ背景には特別ボーナスがあります。
同社はARR(年間経常収益)を重要な経営指標としており、目標を達成すると従業員に特別ボーナスを支給する仕組みを採用しています。ARRの成長に連動した報酬は、営業だけでなく、顧客に必要な機能を開発・提供する組織全体へのインセンティブになり得ます。
また、サイバーセキュリティ業界では高度な専門人材の確保が競争力に直結します。人員数をむやみに増やすのではなく、優秀な人材に高い報酬を払う必要があるため、人件費は構造的に上昇しやすいと考えられます。
費用増を顧客への課金に転嫁できるか
投資家にとって最大の論点は、増えた費用をどのように収益化するかです。
AIを使うほどトークン費用やAPI費用が増えるため、一定額の定額料金だけでは採算が悪化する恐れがあります。
そこで企業向けサービスでは、顧客がクレジットを購入し、自社の環境に応じて端末、クラウド、メールなど必要な機能へ振り分ける仕組みが用いられています。
これは実質的に、利用する機能や量に応じて課金するモデルです。
攻撃が高度化し、守るべき領域が増えれば、顧客が利用する機能も増える可能性があります。
トレンドマイクロがコスト増を価格や利用量に反映できれば、先行投資は将来の売上・利益につながります。
一方、顧客から見れば、サービスが細分化されすぎると「結局どこまで契約すれば安全なのか」が分かりにくくなります。
他社製品を含めた環境全体を分かりやすく統合し、対策の優先順位まで示せるかが、付加価値を高める鍵になります。
競争相手は専業大手だけではない
成長市場には有力な競合が集まります。
代表的な企業として、米国のCrowdStrikeやPalo Alto Networksが挙げられます。
さらに、OSやクラウドを起点にセキュリティ機能を広げるMicrosoftも強力な競争相手です。
以前は、端末、ネットワーク、クラウドなど、各社が得意分野ごとに比較的すみ分けていました。
しかし、企業全体を一元監視するSOC型のサービスが主流になるにつれ、領域間の境界は薄れています。
各社が同じ方向へサービスを拡張すれば、機能が同質化し、価格競争や開発競争が激しくなる恐れがあります。
また、今後はAIを前提に設計された新興セキュリティ企業が台頭する可能性もあります。
トレンドマイクロは長年の顧客基盤や知見を持つ一方、技術革新の速さに対応し続けなければなりません。
大企業向けでは、複数領域をカバーし、他社製品とも連携できる大手への集約が進む可能性があります。
これは規模を持つトレンドマイクロにとって追い風です。
ただし、大手であれば必ず勝てるわけではなく、先行投資を回収できるシェアと価格決定力が必要です。
投資判断で確認したいポイント
ストップ安によって株価は大きく下がりましたが、当時のPERは約22倍であり、明確な割安水準とまでは言い切れません。
市場の成長性を踏まえれば許容できる可能性はあるものの、利益回復が遅れれば割高感が残ります。
今後は、次の点を継続的に確認する必要があります。
- ARRが伸び続けているか
- クラウド関連費用の増加率が落ち着くか
- AIや新サービスへの投資が売上・契約単価の上昇につながっているか
- 営業利益率が回復に向かうか
- 利用量に応じた課金によってコストを適切に転嫁できているか
- 大企業向けSOC市場でシェアを伸ばせているか
- CrowdStrike、Palo Alto Networks、Microsoftなどに対する優位性を保てているか
- 円高・円安が業績に与える影響はどの程度か
投資直後の段階では、急増した費用が本当に一時的な先行投資なのか、それとも競争力を維持するために毎年必要となる恒常的な費用なのかは見極めにくい状況です。
今後数年は、コスト構造が大きく変動する可能性も考えておくべきでしょう。
まとめ:成長市場の魅力と高コスト体質をどう評価するか
トレンドマイクロは、AI時代に需要拡大が期待されるサイバーセキュリティ市場の有力企業です。
クラウド化、リモートワーク、攻撃の高度化によって、企業がセキュリティに投じる金額は中長期で増える可能性が高いでしょう。
一方、攻撃側が進化するほど、防御側にもAI、クラウド、高度人材、製品開発への投資が求められます。
市場拡大の恩恵を受けるために多額の費用が必要となるため、「市場が伸びるから利益も伸びる」と単純には考えられません。
今回の株価急落が投資機会になるかどうかは、先行投資によって生まれた機能を顧客に販売し、増えたコスト以上の継続収益を獲得できるかにかかっています。
その成果が数字に表れれば、株価の再評価につながる可能性があります。
反対に、費用だけが積み上がり、競争激化によって価格転嫁できなければ、利益率の低迷が続く恐れがあります。
急落後の株価だけに目を奪われず、ARR、利益率、クラウド費用、課金モデル、競争優位性の変化を追いながら判断することが重要です。
トレンドマイクロは、成長余地と不確実性の両方が大きい、今後の推移を注視したい銘柄といえるでしょう。
YouTubeでも詳しく解説しておりますのでそちらもぜひご覧ください。
執筆者
元村 浩之(もとむら ひろゆき)
つばめ投資顧問 アナリスト
県立宗像高校、長崎大学工学部卒業。
大手スポーツ小売企業入社後、店舗運営業務に従事する傍ら、ビジネスブレークスルー(BBT)大学・大学院にて企業分析スキルを習得。
2022年につばめ投資顧問に入社。
長期投資を通じて顧客の幸せに資するべく、経済動向、個別銘柄分析、運営サポート業務を行っている。
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